よそ者であることの愉悦
先日、用事があって米子市の皆生温泉に一泊した。米子駅から、同じ宿へ向かう九州のご夫婦と送迎車に乗り合わせた。
「今日は投入堂へ行きたかったんだけど、残念ながら雨で立入禁止だったんです」
「とうにゅうどう」と夫が言い、運転手が「なげいれどう」ですね、と訂正した。数年前、会津若松へ知人を訪ねた折、タクシーの運転手に「さかしたちょう」と告げたら、「ばんげまち(坂下町)ね」と返されたことを思い出した。
こんなとき、自分が旅の空のよそ者であるという実感を強く覚える。それは孤独な感覚だが、同時に旅の醍醐味でもある。鳥取で列車のことを「電車」と呼ぶ人は間違いなく県外出身者だし、まして「大山」を「おおやま」と読む人は関東人だと分かってしまうものだ。さりげなく列車を「汽車」と呼ぶようになったとき、その人の旅は終わるのかもしれない。
木山捷平は鳥取の隣県である岡山出身の作家だが、中国山地を境に〝陰〟と〝陽〟とも称される両県の空気はやはりずいぶん違うのだろう。旅をテーマに古今東西から文学作品を集めた本書の中でも、三朝温泉の旅を描いた随筆『山陰』は、どこか湿って仄暗い、昭和の旅情を感じさせる。鄙びた宿で茶褐色のラジウム泉につかり、パチンコでスッて、三徳山の茶屋で豆腐をおかわりする。予定らしい予定はない。詳しい情報は現地調達。インターネットがない時代、旅はきっと万事がこうだったし、旅人は孤独なよそ者の気分を存分に味わえた。詳細な旅行ガイドと美しい写真と口コミによって、令和の旅は、はたしてより豊かになっただろうか。