〝もうひとつの世界〟を垣間見る
山と海に囲まれた「ヘリヤ地方」に住む少年・アムナリウスは、中空にたゆたう《声たち》と対話しながら、いつもの陸上バスへ乗り込む。「公社」の人の指示のもと、小石を拾う作業に従事するために。
『ヘリヤ記』は、私たちが暮らす世界とは別の〝世界〟を描くファンタジー小説だ。やさしい言葉で紡がれた一見穏やかな作品だが、薄膜のように全編を包む不穏な予感に、読者である私は、ディストピア(反理想郷)という言葉をつい連想してしまう。〝こちらの世界〟が原発事故やパンデミックを経たからこそ、この物語はいま、ここに表出したのではないか。そんな理屈っぽいことを考えたりもしてしまう。きっと読む人それぞれに、描かれていない何かを想起させる力が、この物語にはある。それはこの物語が、作者の内部から、時間をかけてゆっくり立ち上がってきた〝いきもの〟だからかもしれない。
作者で詩人の白井明大さんは、東京都出身だが、縁あって数年前、鳥取市に移住した。この地で暮らし、歩き、目を凝らし、耳を澄ませた日々が積み重なるなかで、白井さんの中に生まれた言葉たちが『ヘリヤ記』になったという。本書冒頭の「ヘリヤ地方」の地図をよく見ると、鳥取市民ならきっとニヤリとしてしまうはずだ。
本作は三部作の私家版(※1)として制作され、今年はⅡの刊行が予定されている。この手のひらサイズの小さな本の存在に、気づき、浸り、そして続きを待つこと、そのささやかな一瞬の連続が特別だと気付かされる。ヘリヤ地方は今、どんな天気だろうか。鈍色(※2)の鳥取の空を見上げながら、ふと思いをはせる。
※1 個人が営利を目的としないで発行し、狭い範囲に配布する書籍
※2 濃い灰色