おいしいふるさと
あれはもう四半世紀も前のこと、東京で一人暮らしを始めたばかりの秋だった。下宿近くのスーパーで、初物の梨が山積みにされているのを見て、私は激しい衝撃を受けた。
売り場が、茶色で溢れていたからだ。
鳥取の梨農家の孫に生まれた私にとって、梨とは、爽やかな酸味とみずみずしい歯ごたえの〝緑色〟の果物である。それなのに、東京のスーパーにおける梨は圧倒的に茶色であり、緑色の「二十世紀梨」はレアな脇役扱いを受けていた。
優しい甘さと柔らかな果肉をもった茶色い梨もおいしいけれど、今でも二十世紀梨をかじるたびに、ああ、私の梨はやはりこれだ、と感じるのだ。40年以上生きてきて、世の中には風味絶佳の美食があまたあることを知ったけれど、幼少期に実家の食卓で刷り込まれた味への愛着から、私の舌は逃れることができない。
食いしん坊の著者が思いつくままに古今東西の味を綴った本書には、鳥取県北栄町で行われる地引網漁も登場する。地引網で取れる魚の格別のうまさを、口をそろえて自慢したという地元の漁師さんたちにとって、その味は、何物にも代えがたい、母なるふるさとの海の味なのだろう。国内外の食に通じたリンボウ先生(※)の話題も、やはり最後は、子どものころに親しんだ、懐かしくも素朴な味の話題に行きつくから不思議だ。
外出した日に家族で食べた洋食、鯨の竜田揚げ、母の作る俵型のコロッケ……
都会で暮らす私の弟も、帰省のたびに、濃厚で甘みのある鳥取独特の刺身しょうゆを買い求める。刺身だけは、これでなければ落ち着かないという。飽食の街を肩で風切り歩く彼もまた、山陰の片田舎に舌をとらわれたままなのだと思うと、なんだかほほ笑ましい。
※林望(はやし・のぞむ)の愛称