もの知り学芸員のケンパク宝箱究め話

自然史・歴史・民俗・美術工芸に関する資料を総合的に研究し展示する「鳥取県立博物館」。各分野のエキスパートである学芸員が、収蔵品にまつわる〝究め話〟を紹介。あなたの知らない鳥取県のお宝、たっぷり魅せます。

眠りについた古城

【因伯古城跡図志】 (いんぱくこじょうせきずし)

 南北朝から安土桃山時代の日本では、津々浦々に城が築かれました。面積の小さい鳥取県でも、なんと500以上の城跡が確認されています。当時の城は、現代人がイメージするような天守閣や御殿などの建物を有するものはごく一部で、敵の進軍を妨げる堀や、攻撃を遮る()(るい)など、土の構造物から成り立っていました。また、村人が逃げ込むシェルターのようなものから、軍勢が籠城できるような軍事拠点まで、規模や構造も多種多様でした。

 乱世の終焉によって、各地にあった城は防御拠点としての役目を終えました。しかし、江戸時代の後期に有事の防衛拠点として、再び注目されます。鳥取藩でも文政年間(1818~1830年)に領内の城跡を調査が行われました。それを元に、(わか)()(おに)()(じょう)(若桜(ちょう))、()()()(じょう)()()(はま)(ちょう))など、(いな)()伯耆国(ほうきのくに)の古城跡の絵図集である「(いん)(ぱく)()(じょう)(せき)()()」が作られました。図志には、古城の正確な位置をはじめ、概要や規模、所在する村の戸数などが記されています。

 写真はその中の「()()()(じょう)」(鳥取市鹿(しか)()(ちょう))の絵図で、(じゅう)(ぼう)(やま)の中腹に(くる)()と呼ばれる城を構成する平坦地が描かれています。令和2年(2020年)行われた調査ではこの絵図を裏付けるように、()(せき)建物(※)の跡をはじめ堀や土塁など大規模な遺構が発見されています。

 幕末の動乱の中でも、「因伯古城跡図志」に描かれた城は再び戦いに使用されることなく、今もひっそりと眠っています。

※建物の基礎となる石の上に柱を据え置いたもの

【執筆者】
鳥取県立博物館・主任学芸員 山本隆一朗 
古代・中世担当、 名和 (なわ) (伯耆)氏・山名氏・ 尼子 (あまこ) 氏などを研究。専門は南北朝政治史。